今までほそぼそとこちらで、ブログを更新してきましたが
もう、SNSが増えまくりで何がなんだか分からないのと
やっぱりドイツで暮らしてるんだからドイツ人に向けたブログにしないと意味ないのでは?と思ったので
新しくブログを引っ越すことにしました
最近のブログは親切で、いちいちコードも書かなくていいなんて、すごい
ボタン一つで何でもできちゃう
10年前は夜更ししながらコード一生懸命書いてたなぁ
まだまだ、ドイツ語でブログを書くなんて難しいけど
頑張ってドイツ語でブログがかける日が来ますように。
それでは、みなさんこれからもよろしくお願いします。
PS、新しいブログは画像のアップが非常に簡単なのでたくさん写真をのせたブログにしたいです。
新しいブログはこちら
http://rimsonghi.blogspot.com/
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極端な話、例えばの話なんだけど
ここに2枚の絵がある
1枚は真面目に目に映るものを描いたもの
2枚は不真面目にでたらめに、秩序を乱して適当に目に映るものを描いたもの
前記は、まだ写真の技術が発達していない時代ルネッサンスなんかのモネとかルノアールとか
宗教のための存在だったり、いろいろとそれなりに存在することでその機能を発してきた
後記はピカソや太郎やセザンヌとか、キャンバスの中でその存在するということを壊した
そしてマルセルデュシャンは、その存在の存在を壊してしまった
今、私が一生懸命追いかけているつもり、つもりなんだけど
一生懸命追いかけてるのは、存在するそのものの存在だから
その永遠は永遠なのか?という出口のないことをおいかけてるつもりでもいる
でも、つもりっていう理由は
私はまだキャンバスの中でさえ芸術の存在を壊せないでいる
他人の評価が怖くて、偽物を作っている気分だ
ううん、それは偽物じゃない
けれども本物でもないんだ
もうこの際そんなものはどっちだっていい
切りがなさ過ぎてうんこのにおいがしてきたよ!
くさいなぁ。
ベルリンで暮らしていて、今までにない経験や物事を見ると
自分の中のいろんなものが触発されてたくさん考えられるいい機会になる
ネガティブだったり、ポジティブだったり
月に一度はフェスティバルがあって、大きな通りが閉鎖されあちらこちらで音楽が鳴り響き(大音量)
人々は皆ビール片手に踊ったり笑ったりそれはもう幸せそうな表情で
おもしろいのが、レストランも出店を出すんだけど負けじとこちらも大音量で好きな音楽を流すからこれまたカオス
友達は日本にはこんなにお祭りないでしょ?といわれるけど、縁日だったりお神輿だったりあるわけで
全く同じではないけど、似たようなものならあるよって話すと少し機嫌を悪くするので困る
自分の国を自慢したい、誇りに思うのは良いことだけど、この国の人たちは自分が住んでる国が一番だと思い過ぎている一面があり
たまに機嫌を取るのにつかれる時がある
そんなことはしなくてもいい、気を使うななんて言われるんだが
私からしてみれば、こんなの水掛論なのでどうでもいい
でもいちいち機嫌を損なわないでもらいたいな
やっぱりアジアは少し見下されてるのかなぁ
たまに、くだらないジョークでもすごく腹立つこともある
思いやりというか、気遣いができる日本はいいなぁなんて考えるけど
腹の中のさぐり合いも馬鹿馬鹿しいもんである
とにかく、ドイツ人は非常に自分の国に誇りを抱いていてこれはいいこと
けれども、たまに自分たちが一番!って強く思い過ぎる個所もある
前振りが長くなったので何が書きたいのか忘れるところだった
今日はカーニバルのフェスティバルでサンバやらアフリカダンスやらアイリッシュやら世界中の踊りと音楽が行進していく
一応日本と韓国、中国もあってこれまた失笑せざるを得なかった
韓国は、いつものあれケンガリだのチャンゴだののあのおどりね。
しかし、スローガンが竹島は韓国の領土!だった。
中国はもう意味不明すぎる。その意味不明さが中国らしいので想像におまかせしたい
んでもって日本はというと、コスプレイヤーの集団だった
秋葉原の街にいる若者が30人くらい集団になってるだけだった
この人たちは踊りなんて踊らないんだろうな、、、
ねぇ、自慢できるものって、そんなに大事なの?
はぁ、しんどー
生後2歳まで神奈川県海老名市
中学2年まで埼玉県大宮市で暮らして(両親が離婚したので母親の新居に引越し)
大学に入るまで東京都世田谷区
大学は二年で卒業、この時は武蔵野の小平
卒業後は北海道札幌市にある朝鮮学校に就職(1年)
ちょっとだけ、秋葉原で暮らす(1年くらい)
その後縁あって、カワグチアートファクトリーのアトリエで4年
芸術やめる宣言でホステスに専念するため2年間新宿で暮らす
んでもって、今はベルリンで暮らしている
言葉も通じないのに(一応勉強はしてるけど)ドイツで暮らしてる
不思議だな、ひとりで生きてるわけじゃないんだ
別れはたくさんあったけど、こうやって考えるといつも誰かがそばにいてくれた
そして、今も
そのときは、悲しかったり悔しかったり、恨んだりいろいろと負の感情が強かったからよく分からないこともあったけど
私は今、離婚した両親も別れた恋びとや友達にとても感謝している。
もう十分すぎるくらいの波瀾万丈、破天荒してきたんだからいい加減落ち着こう(結婚とかではなく)
腰を据えて、芸術と一緒に生きていこうかな、
それとも、やっぱりアドベンチャーかなぁ。
しかしまぁ、この28年のうちで9回も引越ししてる。
ここはぜひとも、ベルリンにとどまりたい。
でも、実はこの後ギリシャだったりもする。笑
[0回] ドイツで暮らすようになってから、いろんなものに免疫がついた。
たとえば、死体。
ある日公園で朝ご飯を食べていると、鴨がよってきたので
今夜かも食べたい?って聞かれたんだけど、これはいつものジョークだと思っていたらどうやら本気だったらしく
本当にかもを捕まえようとしていたので驚いた
でも、よく考えれば、私たちが普段口にしている牛だの豚だの鶏だのってのは
さっきまで両足でたって呼吸をして生きていたんだ
だれかが殺してパッケージになる
それを食べることは、その辺のカモを取っ捕まえてよるご飯にしてもおかしくはない。
だれかが殺すということは、家畜を殺す仕事の人がいるわけで、その人は1日に何頭
もの家畜を殺すんだとしたら、1年に換算すると。。。
ただ、ドイツの法律上狩りをしていい場所とそうでない場所があるらしい。
これも、なんとなく矛盾を感じるんだけれど、でもみんなしてその辺のかも取っ捕まえて食べ出したら
秩序が乱れるから、それこそ大変なんだろうな
日本では放送倫理というのがあって、電波にのせていいものとそうでないものがあって
死体とか、ポルノとかは一応ダメってなってる
ドイツのテレビは普通にビンラディンの死体がNHKみたいな番組で流れるし
こないだのアイスランドの噴火の灰で死んだヤギとか牛なんかも普通に流れる
ポルノは週末の深夜になると、ショッピングチャンネルがポルノチャンネルになる
テレビ番組の構成で面白いなって思ったのが
ニュース局は1日中まじめなニュースだとかドキュメンタリーとかやってて
子供向けは、一日中アニメだのティーンエイジャー向けのハリウッドドラマとかやってる
私のお気に入りはフランスのテレビ局でARTEっていう局なんだけど
ミニシネマとかヒマラヤに登頂するドキュメンタリーとか(愛)
テレビの話って普段友達とするもんだけど、私はだドイツ語が堪能ではないので
そんな高度なお話はできない、、、、
それと、もうひとつ、気になるのがナチっていう日本でいうところの右翼みたいな人たち
こっちに移る前に、川口時代の後藤さんにナチは相当危険な存在で気をつけた方がよいと聞いていたけど
そんなに気にしてなかったら、最近うちの近所にナチがたくさん物件を購入しているっていう噂を聞いて
ちょっとビビってる。
ナチってのは名前の通り、ナチスでヒトラーを崇拝していてアウトサイダーを毛嫌いしている存在
こないだ、犬の散歩で歩道を歩いていたら前から少し変わった女性と怖そうなで飼い犬が歩いてきて
普通にすれ違うのに、犬がチワワめがけてガブーってけんか売ってきたときは死にそうなくらいこわかった。
今日は脳味噌死んでる、こんなくだらない日記みたいなんを書く予定じゃなかったんだ。
ということで、またこんど'!
ねて、おきて、(たまに寝坊)
仕事して(好きな絵を描くお仕事)
ごはんたべて(たまにビールとか)
またねる
そういえば、ドイツは犬天国!
食品売り場いがいは、ほとんど一緒に店内に入れる。
昨日、新聞をかいにいったら大きなラブラドール(茶色)が琥珀さん(うちのちわわ茶色)に尻尾降って近寄ってきた。
公園もわんちゃんだらけ!
でもほとんどが大型犬だから、琥珀さんはマウスってよばれる。
これは犬なのか?ってよくきかれる。
なんか、ほんとうに琥珀さんは犬なのかどうか不安になってきた。
わん!
現代において、いろんな情報があふれる中
芸術作品を言語化するのは必要かどうか
今日は音楽フェスティヴァルがあるというので
町中で、大爆踊り狂ってきたストリートでおどってきた。
どの世界でも、お祭りになると若者は元気になる。
しかし、倉庫だの、野原だの、屋根の上だのあっちこっちで踊る人々。
つか、屋根ってどうやって登るのよ!笑
若者と音楽に囲まれながら、ふと芸術作品の言語化は
必要かどうか、しきりに考えていたのである。
ビールとエレクトロニックに囲まれながら。
ベルリンにきてから、自分はどんなものを描いていて
たまにどんなものを作るのか、相手に伝えなければいけない機会がとても増えたのだ。
日本ではまったくそんな必要なんて無かった。というか、しなかった。
けれども、わたしはここの国で言語というハードルをもっている。
いくら作品をこなしても、言葉が非常に重要なポジションにあるのでこれがまた面白い展開になるのである。
どうも、私の脳味噌は少々ブットビなときがあるので 、たまに大爆笑を喰らう時がある。
まぁ、笑ってくれたらそれはそれで良いのだけれど。
私がこんな変化を遂げたのは、インターネットの仕業でもある。
ソーシャルネットワークの発展とネットの普及によっていろんな文化が開放された。
それと同時に、音楽ではmusic videoでの位置付けが高くなった。
映像は今までテレビや映画の中が1番身近な存在だったのが、インターネット回線とパソコン操作が少しできれば
だれでも好きな時に好きなものを楽しめるのである。
それだけじゃない。
けど例え出したらきりがないのでやめとく。
というふうに、変化と文化は並行しているように思えるので
私も、変化を恐れてはいけない。
ベルリンではなるべく言語化するように心がけている。まだまだ時間はかかるけど。
作品についてお話する時に、話すべきこととそうでないことを編集する。
それは、プロデュースするということ。
作品を並べてしまえばそれまでだけど、作品を並べるまでのプロセスも必要で
クラシックでいうと序曲。
いい具合でないと、のちのち困るのだ。
そんなことを考えた、五月の野外レイブでした。
今週も何件かお友達の展示会に顔を出したりイベントに行ってみたり
ベルリンでの芸術の印象は、流行がない。
そんなイメージ。
みんな、それぞれ好きなものを好きなだけ作ってるかんじ。
子供のころに唯一自由を感じられた図画工作の時間みたい。
40さい、50さい、20代の若者。
それぞれ、年齢を感じさせない作品がたくさんある。
ひとまとめには言いくるめられないけれど、40代のアーティストの作品は幼稚園の子が作るような粘土作品だったりする。
若者の作品は、ちょっと病的。
ドラッグがはびこっていたり、精神世界だったり。
変態的なものが多い感じがする。タヘレスの蠅とか特に。
そうかんがえると、今の若者は病んでいて
年を重ねる事に元気になっていく。
ベルリンの展示会場は戦争を思い起こさせるような冷たくて寒い裸の煉瓦が剥き出しになっていたり
地下室なんて、どこもかしこも防空壕を連想させる。
そして、においは、あの、平壌や発展する前の北京の地下鉄のにおい。
独特なひやりとした空気と乾いた砂のにおい。
しかし、面白いことにここの芸術作品はうまい具合にピントがずれている気がしないでもない。
全部が全部韓制度が高かったら、面白味にかけるんだろうけど
例えると。
すごくきれいな景色の写真なんだけど、構図が惜しかったり
かるーくピンボケしているような写真。
いつか、だれかが言っていた言葉を思い出す。
クロッキーやドローイングを100枚描いたとして、その中に1枚でもとても良くできた絵があれば良い方だ。って。
確かに、毎日絵を描いていたり作っていたりすると恐ろしい失敗作が生まれることもある。
むしろ、ほとんどの作品に満足が行かないようなもんなんだけど。
ベルリンでの芸術家さんたちのすごいところは、失敗を恐れないってことかな!
100枚の作品の中に1つも納得が行く作品がなかったとしても、それを発表して次のステップに進もうとすることが良いところ!
次のステップのための失敗だと思えること。
これは、いまの私にとってすごく重要なこと。
本当に死にたくて 死のうとしても 死ねなかった
私の死にたいは 逃げたいと 同じことだったんだ
だから、もう 死にたいっていうのを やめることにした
逃げたいって思うのを辞めるにはまだ少し時間がかかるから
できるだけ、つかれた ってつかれたって 言うことにしたよ
生きるってことは 疲れるんだけど
頑張ってみようかな
私の死にたいは 逃げたいと 同じことだったんだ
だから、もう 死にたいっていうのを やめることにした
逃げたいって思うのを辞めるにはまだ少し時間がかかるから
できるだけ、つかれた ってつかれたって 言うことにしたよ
生きるってことは 疲れるんだけど
頑張ってみようかな
映画でも、芸術でも、命でも
誰のためのものなのか、たまに考える
それは、自分が提供するがはの人間だということに最近やっと自覚というものが芽生えたから
東京に住んでいたころは、日本の映画と海外の映画を見る比率は3:7くらい
ましてや、映画館でみるとなると 1:9くらい
昔付き合っていた男の子は、日本の映画なんて映画館で見るに値しないなんてひどいことを言っていたもんだなぁと
ベルリンでの生活も1カ月
今のところ深刻には困ることはあまりない
ただ、本当に日本とは価値感が違いすぎておどろく
まず、だれにでも話しかける
この国には人見知りというのが人見知りというのがないみたいで、シャイという言葉でまとめられる
恥ずかしい。まさにその通り。恥ずかしくて初めての人とはうまく話せない
それと、生命にたいする価値感がまるで違う(この辺はまた後日言葉がまとまったらゆっくりまとめます)
いろいろと価値感がある中で、日本の映画は映画館で見る価値がないというのは
ものすごく寂しいことなんだろうな
その日本の映画も寂しいし、その彼もすごく寂しいよね
映画は誰のためのものなんだろう
日本で作った映画は、日本の映画館で上映する
アメリカで作った映画は、アメリカで上映する
フランスで作った映画は、フランスで上映する
日本で作った映画を、日本で上映した時に、日本に住んでいる人が見てくれなかったら
日本で作った映画を、アメリカで上映した時に、アメリカに住んでいる人は
果たして見てくれるのであろうか?
東京で暮らしている時に、もっと身近にいる人たちの作品とその声をちゃんと聞けなかったのが悔しいなぁなんて
不思議とそんなことを考えたりしました。
不思議といえば、私はも自分で自分を支えることがすごく難しくていろんな依存を繰り返してきたけど
最近は、自分を支えるのに何が必要で、どうしたらいいのか、なんとなく分かる気がしてきた
重たいものを 運び続けると
手が痛くて ひりひりする
途中で下ろしたいけれど
持ち上げる時には もっと重たい
いつもの道が 果てしない 砂漠を歩くような
遠くのほうで 蜃気楼は 夢うつつ
手の痛みで 戻る意識
ひとりで運び続ける その 重たい荷物は
そんなに 大事な ものですか?
誰のためのものなのか、たまに考える
それは、自分が提供するがはの人間だということに最近やっと自覚というものが芽生えたから
東京に住んでいたころは、日本の映画と海外の映画を見る比率は3:7くらい
ましてや、映画館でみるとなると 1:9くらい
昔付き合っていた男の子は、日本の映画なんて映画館で見るに値しないなんてひどいことを言っていたもんだなぁと
ベルリンでの生活も1カ月
今のところ深刻には困ることはあまりない
ただ、本当に日本とは価値感が違いすぎておどろく
まず、だれにでも話しかける
この国には人見知りというのが人見知りというのがないみたいで、シャイという言葉でまとめられる
恥ずかしい。まさにその通り。恥ずかしくて初めての人とはうまく話せない
それと、生命にたいする価値感がまるで違う(この辺はまた後日言葉がまとまったらゆっくりまとめます)
いろいろと価値感がある中で、日本の映画は映画館で見る価値がないというのは
ものすごく寂しいことなんだろうな
その日本の映画も寂しいし、その彼もすごく寂しいよね
映画は誰のためのものなんだろう
日本で作った映画は、日本の映画館で上映する
アメリカで作った映画は、アメリカで上映する
フランスで作った映画は、フランスで上映する
日本で作った映画を、日本で上映した時に、日本に住んでいる人が見てくれなかったら
日本で作った映画を、アメリカで上映した時に、アメリカに住んでいる人は
果たして見てくれるのであろうか?
東京で暮らしている時に、もっと身近にいる人たちの作品とその声をちゃんと聞けなかったのが悔しいなぁなんて
不思議とそんなことを考えたりしました。
不思議といえば、私はも自分で自分を支えることがすごく難しくていろんな依存を繰り返してきたけど
最近は、自分を支えるのに何が必要で、どうしたらいいのか、なんとなく分かる気がしてきた
重たいものを 運び続けると
手が痛くて ひりひりする
途中で下ろしたいけれど
持ち上げる時には もっと重たい
いつもの道が 果てしない 砂漠を歩くような
遠くのほうで 蜃気楼は 夢うつつ
手の痛みで 戻る意識
ひとりで運び続ける その 重たい荷物は
そんなに 大事な ものですか?
ものすごく楽になったよ。
芸術ってなんだろうって、考えるのやめたらすごく楽になったよ。
生きてる意味ってなんだろうって、考えるのやめたらすごく楽になったよ。
私のこと、だれも知らない場所に来たらすごく楽になったよ。
今、ドイツベルリンにいます。
この国には競争がありません。
この国の首都はベルリンだけど、中心なんてありません。
この国はすごくきれいだけど、流行なんてありません。
みんな、それぞれのペースで生きています。
いろいろと自分が抱えている問題と真っすぐに向き合うことを知っています。
そして、休憩のとり方を知っています。
このブログを始めたのは、確か初めてのソロ個展だったような記憶が。
わたし、何だかんだ10年くらいこの仕事続けてます。
川口から、ベルリンまで来ました。(途中休憩が2年くらいあったけど)
これが、自分に残された道とかこれしか自分には無いとかってカッコつけることもなくなりました。
芸術ってなんだろう、アイデンティティって何だろうって考えて眠れなくなることもなくなりました。
ベルリンでの新しい制作活動を提供してくれた皆さん、そしていつも側で応援してくれてる大切な人たち
そして、何よりも私以上に、わたしの 私の芸術家としての未来に期待してくれた方々に
心から、感謝してます。
そして、これからの活動でその期待に応えてきたいと思います。
今まで、私の芸術は自分だけのものでした。
私自身に向けた芸術から、外の世界に向けた芸術に成長しました。
まだまだ、力不足な点はいっぱいありますが
どうかこれからも温かく見守ってください。
生まれて初めて、芸術にありがとうって思えるようになりました。
生まれて初めて、自分にありがとうって思えるようになりました。
こうやって、私は死ぬことをあきらめて、前に進んでいくことにしたのです。
そのためには、もっと強くなりたいと思えるようになりました。
2011,4,16 ドイツ ベルリンにて
芸術ってなんだろうって、考えるのやめたらすごく楽になったよ。
生きてる意味ってなんだろうって、考えるのやめたらすごく楽になったよ。
私のこと、だれも知らない場所に来たらすごく楽になったよ。
今、ドイツベルリンにいます。
この国には競争がありません。
この国の首都はベルリンだけど、中心なんてありません。
この国はすごくきれいだけど、流行なんてありません。
みんな、それぞれのペースで生きています。
いろいろと自分が抱えている問題と真っすぐに向き合うことを知っています。
そして、休憩のとり方を知っています。
このブログを始めたのは、確か初めてのソロ個展だったような記憶が。
わたし、何だかんだ10年くらいこの仕事続けてます。
川口から、ベルリンまで来ました。(途中休憩が2年くらいあったけど)
これが、自分に残された道とかこれしか自分には無いとかってカッコつけることもなくなりました。
芸術ってなんだろう、アイデンティティって何だろうって考えて眠れなくなることもなくなりました。
ベルリンでの新しい制作活動を提供してくれた皆さん、そしていつも側で応援してくれてる大切な人たち
そして、何よりも私以上に、わたしの 私の芸術家としての未来に期待してくれた方々に
心から、感謝してます。
そして、これからの活動でその期待に応えてきたいと思います。
今まで、私の芸術は自分だけのものでした。
私自身に向けた芸術から、外の世界に向けた芸術に成長しました。
まだまだ、力不足な点はいっぱいありますが
どうかこれからも温かく見守ってください。
生まれて初めて、芸術にありがとうって思えるようになりました。
生まれて初めて、自分にありがとうって思えるようになりました。
こうやって、私は死ぬことをあきらめて、前に進んでいくことにしたのです。
そのためには、もっと強くなりたいと思えるようになりました。
2011,4,16 ドイツ ベルリンにて
25才 ここに戻ってくるのが前提で旅に出た。沖縄まで、歩いたりバスに乗ったりいろいろ放浪しながら。
28才 ここにはもう戻って来ない。帰りたい場所は、私にとって帰るべき場所じゃなかった。
だから、帰る場所はいらない。
まっすぐにただ前に進むだけ。
それが私の進化論。
26才の誕生日にアトリエを飛び出してどっか遠くに行きたいと思いながら
現金を握りしめて、旅に出ました。
あまり記録は無いけど、その時の日記はこちら
■■■
28才 ここにはもう戻って来ない。帰りたい場所は、私にとって帰るべき場所じゃなかった。
だから、帰る場所はいらない。
まっすぐにただ前に進むだけ。
それが私の進化論。
26才の誕生日にアトリエを飛び出してどっか遠くに行きたいと思いながら
現金を握りしめて、旅に出ました。
あまり記録は無いけど、その時の日記はこちら
■■■
私の願い事は、何だろう
そんなことも解らぬまま、私はベルリンに旅立ちます
もう、日本に戻ってくる予定はありません
何かを見つけに行くのではなくて
何だろう、生きる事をもっと人間の本質的に行いたいという最近の願い
そうだ、私の願い事は人間らしくあること
人間とは、欠点を抱えている
それは他の動物のように機能的な欠点ではなく
内面的な欠点だったり、人と人の繋がりで生じる欠点だったり
人間は5体満足から始まる
そして、知恵を身につけ道具を使う
確かに5体満足でない人間や、知能障害と呼ばれる普通の境界線からはみ出る人間もいる
けれども、同じ空気をすいながら赤い血を流れている人間同士で
普通、異常などという境界線があるのが悲しい
そしておかしい
私の願いは、人類皆兄弟、みんなで仲良く
喧嘩しないようにお互いを思いやる
けれども、私は東京で人間付き合いに疲れてここから出て行く様なものだ
人間の事は嫌いじゃない
でも、もう資本主義にうんざりなんだ。
かといって、ベルリンに何か他の脱出口があるわけじゃない
私は私でいたいんだ
誰も傷つけたりしない、凶暴な人間の欲を捨てたい
それが私の願い。
そんなことも解らぬまま、私はベルリンに旅立ちます
もう、日本に戻ってくる予定はありません
何かを見つけに行くのではなくて
何だろう、生きる事をもっと人間の本質的に行いたいという最近の願い
そうだ、私の願い事は人間らしくあること
人間とは、欠点を抱えている
それは他の動物のように機能的な欠点ではなく
内面的な欠点だったり、人と人の繋がりで生じる欠点だったり
人間は5体満足から始まる
そして、知恵を身につけ道具を使う
確かに5体満足でない人間や、知能障害と呼ばれる普通の境界線からはみ出る人間もいる
けれども、同じ空気をすいながら赤い血を流れている人間同士で
普通、異常などという境界線があるのが悲しい
そしておかしい
私の願いは、人類皆兄弟、みんなで仲良く
喧嘩しないようにお互いを思いやる
けれども、私は東京で人間付き合いに疲れてここから出て行く様なものだ
人間の事は嫌いじゃない
でも、もう資本主義にうんざりなんだ。
かといって、ベルリンに何か他の脱出口があるわけじゃない
私は私でいたいんだ
誰も傷つけたりしない、凶暴な人間の欲を捨てたい
それが私の願い。
村上春樹のこの本を読んだのがちょうど20才くらいで、直子の気持ちが当時は良くわかりませんでした
けれども、今こうやって少しずつ大人になると直子の気持ちが痛いくらいに伝わってきます
直子が泣くと、私も泣いてました
ありがとう っていう台詞も
ねぇ、私の事好き? って台詞も
人間は18と19の間を行ったり来たりするべきよ って台詞も
男の子はワタナベ君を見習うべきです
レビューには、セックスしかしてないとか、大学時代だからとか書かれていますが
ワタナベ君はとてもいい子です
直子が壊れた事に責任を感じ、直子も好きだしみどりにも惚れる
悲しい事は悲しいんだと受け入れ、悲しむ
君も辛かったかもしれないけど
僕は生きて行く事にしたんだ
そのためには、もっと強くならなくちゃいけない
原作ノベルズはワタナベ君の目線から全てが描かれていて、全てが僕という言葉で進行しているのに対して
映画はもちろんワタナベ君の目線で進行してますが、時折みせる全ての登場人物たちの存在感がしっかりとバランスとれていて、そこに登場する全ての人間達の生き様がうまく描かれています
映画は主人公とそれを取り巻く環境をとても、一方通行的な描写をするのが主でストーリーに対して他の登場人物は主人公よりも印象が浅く、そこに存在しているのは主人公のためといういわば引き立てにしか過ぎないけれども
この映画は、人間という命有るものの生きる、時間を過ごす、共有する、だから主人公のための脇役の人生ではなく、みんなが生きるこの時間といった事が伝わってきます
最後の、ぼくはどこにいるんだろうという台詞も質問を投げかける
死以外に終わりなど無く、死んでも僕の死が他人に影響をかけ、全てが終わる訳じゃない
けれども、いつか死ぬんだ
もっと精神病とかそういった類いで括られた恋愛映画で終わってたらどうしようと心配でしたが、見応え有ります
セックスって何だろう
愛って何だろう
生きるって何だろう
心に残る素敵な映画でした
もちろん、音楽も映像も全てが美しくスクリーンで見る価値はあります
セックスのシーンが多く描写も過激ですが、それを恥ずかしいと思ったり
目をそらす様なものでは無いという、価値観がちゃんと反映されています
ただのポルノ映画としか捉えられないのであれば、それはあなたの価値観に問題があるのではと思います
設定は60年とか70年だったと思いますが
年代に関係なく、こうゆう視点を持つ事がとても大事です
2011年になっても、3000年になっても私たち人類がやっている事の根本的なものは
何一つ変わっていないのです
けれども、今こうやって少しずつ大人になると直子の気持ちが痛いくらいに伝わってきます
直子が泣くと、私も泣いてました
ありがとう っていう台詞も
ねぇ、私の事好き? って台詞も
人間は18と19の間を行ったり来たりするべきよ って台詞も
男の子はワタナベ君を見習うべきです
レビューには、セックスしかしてないとか、大学時代だからとか書かれていますが
ワタナベ君はとてもいい子です
直子が壊れた事に責任を感じ、直子も好きだしみどりにも惚れる
悲しい事は悲しいんだと受け入れ、悲しむ
君も辛かったかもしれないけど
僕は生きて行く事にしたんだ
そのためには、もっと強くならなくちゃいけない
原作ノベルズはワタナベ君の目線から全てが描かれていて、全てが僕という言葉で進行しているのに対して
映画はもちろんワタナベ君の目線で進行してますが、時折みせる全ての登場人物たちの存在感がしっかりとバランスとれていて、そこに登場する全ての人間達の生き様がうまく描かれています
映画は主人公とそれを取り巻く環境をとても、一方通行的な描写をするのが主でストーリーに対して他の登場人物は主人公よりも印象が浅く、そこに存在しているのは主人公のためといういわば引き立てにしか過ぎないけれども
この映画は、人間という命有るものの生きる、時間を過ごす、共有する、だから主人公のための脇役の人生ではなく、みんなが生きるこの時間といった事が伝わってきます
最後の、ぼくはどこにいるんだろうという台詞も質問を投げかける
死以外に終わりなど無く、死んでも僕の死が他人に影響をかけ、全てが終わる訳じゃない
けれども、いつか死ぬんだ
もっと精神病とかそういった類いで括られた恋愛映画で終わってたらどうしようと心配でしたが、見応え有ります
セックスって何だろう
愛って何だろう
生きるって何だろう
心に残る素敵な映画でした
もちろん、音楽も映像も全てが美しくスクリーンで見る価値はあります
セックスのシーンが多く描写も過激ですが、それを恥ずかしいと思ったり
目をそらす様なものでは無いという、価値観がちゃんと反映されています
ただのポルノ映画としか捉えられないのであれば、それはあなたの価値観に問題があるのではと思います
設定は60年とか70年だったと思いますが
年代に関係なく、こうゆう視点を持つ事がとても大事です
2011年になっても、3000年になっても私たち人類がやっている事の根本的なものは
何一つ変わっていないのです
これからまた芸術家活動に励みたいと思い、作品を整理してみました。
まだまだ莫大な量の作品があるのですが、それはまた次回に頑張ります。
次のお仕事は、お友達の結婚式のブーケを作らせてもらいます。
いつもはダークな作品ばっかりですが、結婚式という幸せをプロデュースできることは私自身にもプラスなパワーをもたらしてくれます。
枝川の作品を見に来て頂いたみなさま、ありがとうございました。
メールアドレスをいただいた方には、近々お礼のメールを描きたいと思います。
本年度は、りんそんひ、世界に飛び立つ第一歩にする予定です。
皆様、どうか応援のほどよろしくお願いします。
まだまだ莫大な量の作品があるのですが、それはまた次回に頑張ります。
次のお仕事は、お友達の結婚式のブーケを作らせてもらいます。
いつもはダークな作品ばっかりですが、結婚式という幸せをプロデュースできることは私自身にもプラスなパワーをもたらしてくれます。
枝川の作品を見に来て頂いたみなさま、ありがとうございました。
メールアドレスをいただいた方には、近々お礼のメールを描きたいと思います。
本年度は、りんそんひ、世界に飛び立つ第一歩にする予定です。
皆様、どうか応援のほどよろしくお願いします。