現代において、いろんな情報があふれる中
芸術作品を言語化するのは必要かどうか
今日は音楽フェスティヴァルがあるというので
町中で、大爆踊り狂ってきたストリートでおどってきた。
どの世界でも、お祭りになると若者は元気になる。
しかし、倉庫だの、野原だの、屋根の上だのあっちこっちで踊る人々。
つか、屋根ってどうやって登るのよ!笑
若者と音楽に囲まれながら、ふと芸術作品の言語化は
必要かどうか、しきりに考えていたのである。
ビールとエレクトロニックに囲まれながら。
ベルリンにきてから、自分はどんなものを描いていて
たまにどんなものを作るのか、相手に伝えなければいけない機会がとても増えたのだ。
日本ではまったくそんな必要なんて無かった。というか、しなかった。
けれども、わたしはここの国で言語というハードルをもっている。
いくら作品をこなしても、言葉が非常に重要なポジションにあるのでこれがまた面白い展開になるのである。
どうも、私の脳味噌は少々ブットビなときがあるので 、たまに大爆笑を喰らう時がある。
まぁ、笑ってくれたらそれはそれで良いのだけれど。
私がこんな変化を遂げたのは、インターネットの仕業でもある。
ソーシャルネットワークの発展とネットの普及によっていろんな文化が開放された。
それと同時に、音楽ではmusic videoでの位置付けが高くなった。
映像は今までテレビや映画の中が1番身近な存在だったのが、インターネット回線とパソコン操作が少しできれば
だれでも好きな時に好きなものを楽しめるのである。
それだけじゃない。
けど例え出したらきりがないのでやめとく。
というふうに、変化と文化は並行しているように思えるので
私も、変化を恐れてはいけない。
ベルリンではなるべく言語化するように心がけている。まだまだ時間はかかるけど。
作品についてお話する時に、話すべきこととそうでないことを編集する。
それは、プロデュースするということ。
作品を並べてしまえばそれまでだけど、作品を並べるまでのプロセスも必要で
クラシックでいうと序曲。
いい具合でないと、のちのち困るのだ。
そんなことを考えた、五月の野外レイブでした。
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